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小さな岬の映画村から平和を発信
道の駅 小豆島オリーブ公園から見た「岬の文教所」がある田ノ浦岬。
名作「二十四の瞳」の舞台に

 昨秋、大ヒットした映画といえば「ALWAYS 三丁目の夕日」です。今日のように携帯電話もパソコンも、鮮明な画像の液晶テレビもないのに、映画に映し出された場面、場面が楽しさと懐かしさに満ちていていました。
 昭和30年代前半の日常的な風景、そこには夕日のような温かさにあふれていました。カネもモノも不十分ななかテレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」といわれた時代です。でも、多くの庶民は、たとえそれらが手に入らなくても、様々な知恵を絞り1日1日を豊かに過ごそうと努めてしていました。
 映画を見て、この時代の人々の暮らしぶりから、今日的な課題となっているエコを考えるうえでのヒントがあるように感じた方もお多くいたのではないかと思います。
 少し、前振りが長くなりましたが、この「ALWAYS 三丁目の夕日」と同じように、昭和30年代からほんの少し前、昭和29年に、小豆島出身の女流作家・壺井栄の「二十四の瞳」が映画化されています。

小説「二十四の瞳」の舞台
小説「二十四の瞳」の舞台となった本物の岬の分教所。映画村のセットからほど近い場所にあり、当時まま保存されている
「二十四の瞳」を毎日上映
 当然、「三丁目の夕日」世代の人であれば、ほとんどの人が映画館に足を運び、この映画を観て涙したことでしょう。
 戦前の庶民、それも小豆島の貧しい寒村の一角で、小学校の「おなご先生」と、12人の子どもたちが貧しい生活のなかで、愚かな戦争に翻弄された物語が映像化され、戦争の悲惨さとむごさ、そして平和の尊さを誰もが実感させられました。
 「二十四の瞳」には、「ALWAYS 三丁目の夕日」に勝るとも劣らないメッセージ「平和への願い」が映像化されています。小豆島にしか根づかなかった平和の象徴といわれるオリーブの木が育つ天地で、この物語が壺井栄によって編まれたことに不思議なめぐりあわせを感じてなりません。
 オリーブの実がたわわに実る小豆島は、平和を発信するふさわしい島だとは思いませんか! 「二十四の瞳」のオープンセットが、「二十四の瞳映画村」として残され、村のなかにある小さな「映画館」では毎日、「二十四の瞳」を上映しているのです。小さな小さな「村」の一角から、確かな平和へのメッセージを伝えているのです。
 「ALWAYS 三丁目の夕日」を観て感動したあなた、そして、「二十四の瞳」を観て涙したあなたも、映画村を訪ねて、もう一度、この映画を観てください。
 そして、子育て中のお母さん、大切なお子さんに、この映画を見せてあげてください。子どもは未来の宝です。その宝の清らかな命に人類共通の願いである平和の種子を植えつけ、芽生えさせてあげてください。
映画村のオープンセット
映画村のオープンセット。
村に入ると昭和初期の寒村の姿と、
当時の生活感が伝わってくる
「二十四の瞳」が上映されている「松竹座」
「二十四の瞳」が上映されている「松竹座」
映画(昭和62年制作)
映画(昭和62年制作)
「二十四の瞳」の
オープンセットを保存
本物の岬の分教所を再現した分教所の建物。懐かしいボンネットバスも
本物の岬の分教所を再現した分教所の建物。懐かしいボンネットバスも

 映画村に一歩足を踏み入れるとそこはまぎれもなく昭和初期。壺井栄文学館や昭和初期の家々が立ち並び、当時を生きた人たちの生活感が映し出されています。村のなかには、分教所や運動場、当時走っていたボンネットバスをはじめ、村の家々などが当時のまま再現されています。
 それでは皆さんを映画村にご案内しましょう。

昭和初期の庶民が住んだ家を再現
昭和初期の庶民が住んだ家を再現
分教所内の教室と廊下。
分教所内の教室と廊下。

教室
小さな机とイスに座ると
懐かしさが込み上げてきます。
 村は昭和62年、女優・田中裕子さんが主演で製作された「二十四の瞳」のオープンセットを、壊されるのを惜しんだ町の人たちが保存して、皆さんにも楽しんでいただこうと保存し、映画村として再生したものです。
 映画村はその後、壺井栄文学館と彼女の生誕100周年を記念した「せんせ あそぼの」の銅像が新たに加わりました。
 昭和初期を模した日用雑貨の店や漁師の家々が並んでいる通りや、青い海が眼前に広がる校庭と学校などなどが当時のままに再現されています。教室に入った人たちは、勉強机のイスに座り「こんな小さなイスに私たちも座っていたのね。懐かしい!」などと語り合いながら、教室から見える海や校庭を眺める人の姿があとたちません。
キネマの庵
日本映画黄金期を伝える
「キネマの庵」
1950年代のセット
1950年代のセットなどが
展示されている
コッペパンの給食セット
コッペパンの給食セット

12人の子どもたちと遊ぶ大石せんせ
せんせ あそぼ
「せんせ お弁当たべたん」
「うん 今お茶のんどるとこや」
「そんなら あそぼ」
「早う 早う」
「何してあそぶ」
「竹馬」 
「よおし せんせ 負けへんぞ」
「貝とり」
「あんた 貝とり得意やもんね」
「かごめかごめ」
「とうりゃんせ」
「そんなら じゃんけんで決めなさい」
「よおし」
「じやんけんぽん」
「あいこでしょ」
「わぁ せんせ 一番先に負けてしもた」
 また、日本映画の黄金期といわれた懐かしい1950年代の雰囲気を再現した「キネマの庵(いおり)」館があります。一歩館内に入ると往年の名画とともに、古きよき時代が鮮やかによみがえってきます。館内では展示スペースのほか、カフェを併設しています。
 小豆島の民俗資料を眺めながら、昭和の懐かしい給食セットやコーヒーを楽しむこともできます。また、当時の懐かしい昼ごはん、映画村オリジナルの竹篭に入った「せんせいのおべんと」(お茶つき1575円)や「かごめ弁当」(お茶つき985円)ともに予約制で味わうこともできます。
咲き乱れる菜の花のなかで遊ぶ「せんせ」と12人の子どもたち。
咲き乱れる菜の花のなかで遊ぶ「せんせ」と12人の子どもたち。
耳をすますと今にも、元気な歓声が聞こえてくるようです

壺井栄文学館
 映画村には、彼女の代表作である「二十四の瞳」の生原稿、生前の愛用品、数々の初版本などを展示した壺井栄文学館があります。同館ではあわせて栄の夫である詩人・壺井繁治、作家・黒島伝治の書簡や色紙も展示されています。館内入り口の木製の応接セットは繁治・栄夫婦の白鷺(東京)の家からそのまま移したものです。1つの町から3人の文学者が生まれたケースは稀といわれています。 壺井栄文学記念館
村内にある「壺井栄文学記念館」
栄の生原稿や愛用品などを展示
 栄自身は明治32年(1899年)8月5日、樽職人である岩井藤吉、アサの5女として小豆島・坂手に生まれました。内海高等小学校卒業後、村の郵便局や役場などに勤めるかたわら、文学書を読み成長。大正14年(1925年)、同郷の壺井繁治をたよって上京、彼と結婚しました。プロレタリア文学の影響を受け、昭和13年(1938年)に処女作「大根の葉」を文芸に発表しました。
 以来、「暦」「初旅」「母のない子と子のない母と」など300編にのぼる作品を発表し、新潮文芸賞、児童文学賞、芸術文部大臣賞などを受賞。なかでも昭和29年(1954年)に木下恵介監督の手で映画化された「二十四の瞳」は一躍有名になり、小豆島観光の端緒を開きました。
 昭和42年(1967年)6月6日、死の直前に内海町名誉町民に推挙され、同月23日、東京で他界。享年67歳。
壺井栄の遺影や直筆原稿
壺井栄の遺影や直筆原稿

記念館の内部
初版本など、やゆかりの品を展示した
記念館の内部
「二十四の瞳」のストーリー
 舞台は瀬戸内海・小豆島。昭和3年の春、海辺の寒村からほど遠い岬の突端にある分教所に、大石先生は自転車に乗ってやってきた。1年生12人の子どもたちはすぐに先生に打ち解け慕った。ところがある日、先生は子どもたちが仕掛けた落としあな落ち、足の骨を折ってしまう。それがきっかけで先生は分教所をやめ、本校に赴任することになった。そして4年後、分教所で教えた子どもたちは5年生になり、大石先生は結婚。そのころ、時局は上海事変で、言論の自由が圧迫され、左翼思想に同調する教師が検束されるようになった。ショックを受けた大石先生もやがて退職。戦争中に母と娘、そして夫を亡くし、2人の子どもを抱えて苦労していた大石先生。終戦を迎え、13年ぶりに分教所の教壇に立つことに。新しく持った生徒の母にかつての教え子がおり、彼女は先生を戦争や病気で亡くなった同級生の墓に案内し、昔の仲間を集めて先生を慰めてくれるために歓迎会を開いてくれた‥‥。
問合せ先
【岬の文教所】
  • 開館時間 午前9時から午後5時
  • 入場料 大人200円 中・高生100年 小学生 無料
  • 連絡先 TEL 0879-82-5711
【二十四の瞳映画村】
  • 開館時間  午前9時から午後5時
  • 入場料 大人630円 中・高生320年 小学生210円
  • 休日=各施設12月28日から30日
  • 住所・連絡先=香川県小豆郡小豆島町田浦 電話0879-82-2455
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